Podcastという文化の形成
Podcastとはなんなのか。
昨今のアニメの流行やYouTubeなどの動画メディアの教育的な市場、Instagramの映えの文化に、少し飽き飽きしている人におすすめしたいものがある。
それは、ラジオである。みなさんご存知、ラジオ。
ラジオは、僕がハマりにハマっている文化の権化のようなメディアだ。「ながら聴き」ができるものということはわかっているよと、一度は聴いたことがある人もいるのではないだろうか。
そのラジオの中でも、公共の電波には乗らない「Podcast」という番組の形態がある。
Podcastは、文化的背景をたどると、2004年前後にiPodなどの携帯型音楽プレイヤーとRSS技術が結びついたことで誕生した。
ラジオ番組が放送局の編成に縛られていたのに対し、Podcastは「誰でも自由に配信できる」という点が革新的で、個人が語り手となれる新しい表現手段として広まった。その意味で、ブログやYouTubeと同じように「メディアの民主化」を象徴する文化の一部になっている。
Podcastの成立そのものが「主流からはこぼれ落ちるものを、自由に掬い上げて共有する」文化に支えられている点において、この余流というメディアにおいて最初に取り上げるべきものであると、直感的に思った。
SNSが蔓延るからこそ、今楽しめるPodcast。
「そろそろ動画見るの疲れてきたな。」
そんなことが、友達の声で聞くことが増えた。休日に自然に行く人たちや、SNSを一ヶ月やめてみるという人まで現れるようになった。コロナ禍の2020年ぐらいでは、考えられない状況な気がする。
やっぱり、2020年あたりは音声通話アプリ「clubhouse」が時代を成していたのではないかと思う。僕がイラストを描いていた時、あのメディアは純粋に楽しかった。知らない人に自分の作品を声で説明できる、なんなら音声を通じて自分のキャラクターを好きになってもらってから、作品を見てもらえる、いわば革新的な媒体だったのではないかと、今では思う。
そこから、「発信者」や「表現者」という呼び方が増えた気もする。そのような人たちが、自分の作品を世に出し始めて、5年経った2025年の今、メディアに出られている方々の発現を辿ると、だいたいその辺りだったりする。
そんなSNSが流行りきったと言える今、2025年、僕が純粋にハマっている媒体、Podcast。これは音声メディアとしては、すでに多くの人々が享受してきたものにはなるが、昨今聞いている人が増えているのではないかと、直感的に思っている。というか、YouTubeやInstagramが、ランダムなおすすめアルゴリズムを組んだせいで、「推し文化」を助長するメディアではなくなってしまったことも事実。毎週更新される番組を楽しみにすることができるPodcastは、ある種新しい「推し文化」の形成に関与しているのではないか。
今だからこそおすすめできるPodcast番組
まぁ、そんなことはさておき、今回はそんなPodcastを聴くにあたり、おすすめしたい番組をいくつか紹介しようと思う。百聞は一見にしかず。とりあえず気になるものを聞いてみることをお勧めする。
あくまでも個人的に好きな番組であるため、参考程度にして欲しい。
奇奇怪怪
「奇奇怪怪(ききかいかい)」は日本の人気ポッドキャスト番組で、ラッパー TaiTan(Dos Monos) と音楽家 玉置周啓(MONO NO AWARE / MIZ) がパーソナリティを務めている。
「言葉の謎、不条理、カルチャー、社会現象」をテーマに、日常の言葉・出来事・現象に潜む違和感や怪異性を掘り下げるようなトークを行う番組で、カルチャー好きの人にはたまらない番組になっている。その中でも、メインパーソナリティ(二人ともメインっぽくはあるが)のTaiTanは、文化的な背景知識がとても豊富で、聴いているだけで知識欲が満たされる。
番組は 2020年に始まり、Spotify独占配信やランキング上位へのランクインなどを通じて人気を拡大。これからも注目したいPodcast番組である。
僕もこのPodcastのヘビーリスナーであるが、個人的には男性感の溢れる番組と言えるのではないかと思う。二人の少年味溢れるボケとツッコミの混ざった掛け合い、あくなき探究心、すごく面白い。
take me high(er)
こちらは打って変わって女性二人のPodcast番組。インディペンデントマガジン HIGH(er)magazine に関わるメンバーである haru. と miya がパーソナリティを務めるトーク番組である。パーソナリティは、二人とも芸術系の大学の出身で、表現領域においても魅力を感じさせる。
内容としては、番組制作の過程を語ったり、ゲストを呼んでのトークを交えたりする形式で、「聴くマガジン」と番組内では説明されてはいるが、聴いてみるとまるでガールズトークを聴いているような、そんな個人的な話が多い。結婚観についてや性の話、また最近占いに行ったんだよ〜など、テーマはさまざまである。
番組には “別名: たたかう女のライフスタイルマガジン” という副題的な言い回しもつけられており、ある種のフェミニズム性・ライフスタイル論的な視座も帯びている。
こちらは文化的というよりは、哲学的、それも優しい感じの、女性らしい飽和的な観点が魅力の番組と言える。なんだか安心して聴きたい人や、「女性としてのあり方や考え方」を聴きたい人にはおすすめである。
ゆとりっ娘たちのたわごと
このラジオも、女性二人がパーソナリティを務める番組。「スタバの端っこで繰り広げられるような “ゆるい女子トーク” を盗み聞きできるラジオ」というキャッチで語られる番組は、会社員の二人ならではの日常的だけれどもどこか根深い社会問題とも通ずるような、そんな一面を感じさせる。
また、発信から6年以上経過しており、エピソード数も多く、聞き流し音声としては本当に最高である。ただ、若干オリジナルのジングル(話が変わる時に流れる音声や音楽)が少しだけ特徴的なのが玉に瑕だが、そこは慣れれば全く問題ない。むしろ多く聞けば聞くほど、親近感や家族のような感覚で聞けるラジオである。
2025年9月11日、『わたしたち雑談するために生まれてきた、のかもしれない。 ゆとりっ娘たちのたわごとだけじゃない話』という本も発売されている。僕はまだ読んでいません。読みたい。Kindleないかな。
テーマは回によって幅広く、恋愛、自己意識、会話・言語化、映画・作品レビュー、人生の選択などが混ざ流。たとえば、第86回ではホラー映画と「おならと関係性の話」が混ざるような構成になっている。
聞き手にちょっとした「共感」や「自身を投影する余地」を与える構成が意識されているようで、「親密だけど開かれた対話」であると言える。ただ、ゲスト会については、あまり面白くはなく、というのも、二人の軽快なリズムが崩れてしまうので、個人的には二人で喋っている回を聞くことをお勧めする。
日々の句読点。〜余白が生まれる、夕暮れどき〜
こちらは、積水ハウス(企業コンテンツ/ブランドポッドキャストとしての位置づけ)が公式でやっているPodcastで、パーソナリティはエッセイやコラムの執筆だけでなく、モデルや写真の活動など多岐にわたる表現をしている前田エマさんが勤めている。前田エマさんについては、僕はまだあまり掘りきれていない。でもすごく面白そうな人だから、ちゃんと追っていきたい。
日常の中の“余白”や“立ち止まる時間”に焦点を当て、暮らしの中で育まれる感性、自分らしさ、好きなことから始める暮らし方などを探るトークを届ける番組。何より、エマさんの声が良すぎる。癒される、ホッとする。SNS疲れが目立つ今、静かな時間を提供してくれるだけでなく、少しの気づきや、学びなども考えることができる番組である。毎回多彩なゲストが登場。「経験をカタチにする」「つくるより、見つけること」「小さな違いを楽しむ」などのテーマが扱われている。
25~36分程度の回が多く、テーマの前後編構成の回もある。なので、一回聞くと次もどんどん聴きたくなる。更新頻度は二十四節気ごとなので、あまり多くアーカイブがあるわけではないが、ホッと一息、なんだか忙しくなってきた頃に、毎回更新されるラジオは、たまらない。
【まとめ】なぜ今Podcastなのか
ポッドキャストが近年台頭してきている背景には、SNS疲れという現象が大きく関わっていると考えられる。SNSは瞬間的な反応や承認を求める場であり、常に新しい投稿や情報が流れ込み、次から次へと目を奪う構造を持つ。そのスピードは魅力であると同時に、他者からの視線や比較、承認欲求の連鎖によって心をすり減らす要因ともなっている。いわゆる「SNS疲れ」と呼ばれる心理的消耗は、単なる情報過多ではなく、自己を常に演出し続けなければならない圧力から生じる側面が強い。
これに対してポッドキャストは、即時性や視覚的な演出よりも「声による語り」に重きを置く。映像や画像が持つ強烈なインパクトに比べ、声は比較的ゆるやかで、受け取り手に余白を残す。視覚に縛られず耳から入る情報は、聞き手にとって同時に「ながら」行為を可能にし、生活のリズムの中に自然と溶け込む。そこにはSNSのような「今すぐ反応せよ」という強迫は存在しない。むしろ、声を聴くという体験は、他者と静かに時間を共有する感覚をもたらし、リスナーを受動的な安心へと導く。
また、ポッドキャストは「顔を見せる」文化から距離を取る。SNSでは写真や動画を通じた自己表象が強調されがちであり、その演出がプレッシャーとなる。しかしポッドキャストは声という匿名性に支えられたメディアであり、言葉や思考そのものに焦点が当たる。その結果、自己を「見せる」のではなく「語る」場としての自由度を持つ。ここにSNSとは異なる安心感と解放感が存在する。
さらに、ポッドキャストはコミュニティ形成においてもSNSと異なる性質を持つ。SNSは「数値化された関係性」――フォロワー数や「いいね」によって価値が測られる傾向があるが、ポッドキャストはむしろ持続的に聴き続ける少数のリスナーによって支えられる。そこでは関係性の「深さ」が重視され、「広さ」や「速さ」に追われない。長時間の対話や雑談に耳を傾ける行為は、急かされない親密さを生み、SNSで疲弊した人々にとって回復の場となる。
要するに、ポッドキャストの台頭は「余白」を求める文化的欲望に応えるものだといえる。情報の洪水の中で、あえて緩やかな時間を取り戻し、即時の反応ではなく思索の間を享受する。SNSの光と影が極端化する現代において、声のメディアは「心の句読点」として人々に選ばれ始めているのである。
